秋風索寞(しゅうふうさくばく)

2016.11.01

秋風索寞(しゅうふうさくばく)

11月を迎え、震えるような冷たい晩秋の風が吹くこの季節。太平洋側の名古屋から岐阜の山間を抜け、日本海側の富山に移動している一人の時に「秋風索寞」としみじみ感じてしまう。

秋風索寞とは、秋風が吹いて草木が衰え、もの寂しくなるさま。比喩的に、盛んだった物事の勢いがなくなってもの寂しいさまにもいうらしく、まさしくその意味の通りに自然の緑の勢いが無くなり、パラパラと葉が落ちる様子や、飛騨高山までは観光客を乗せたバスで賑わっていた道が、貨物トラックと地元の軽トラ程度に変化する様子を車窓越しに目の当たりにするからなんだろうか。

くねくねぐるぐる続くカーブとアップダウンを繰り返す決して交通量が多くないこの道を、ひたすら北に北に北に…とにかく走り続ける。

狭い車内にはエンジン音でかき消されそうなトランペットの寂しげな曲が時おり聞こえ、オイルとシガーが混ざった独特の異臭を嗅ぎ続けると息をすることすら面倒に感じてしまう。

目の前の風景と正反対のキラキラと輝く海が何故か脳裏に浮かんでは消える…「この道を何度お前は走ったのか?」と自分に尋ねても、全くわからない…と言うか、考えることすら無駄だと笑いながら自分の質問に答える。なんとも気怠いこの病的な感覚を自分では割と好きなんじゃないかと思ってしまう。

特に気に入った場所ではない誰一人居ない寂しい場所に車を停めて、センチメンタルとかロマンティックとか、そんなキザったらしい感覚じゃない寂しい孤独の中、心の目に涙を溜めながら、ぬるくなった甘ったるい不味い缶コーヒーを一気に飲み干す。

完成した建物の引き渡しに、着工した現場監理に、これから始まる工事前の地鎮祭に、設計が始まるプロジェクトの打合せに…そんなセンチメンタルな気分を切り替えて頑張るしかないね。

しかし、人生は旅のようだよ。じゃあ