火の魅力 - 白洲 信哉


昭和の大混乱の中を風のように颯爽と生きた男

2016.04.20

火の魅力 - 白洲 信哉

弊社の関連会社であるヴェッキオ・エ・ヌォーヴォ・ジャポーネ(暖炉販売会社)のパンフレットよりコラムをご紹介させていただきます。コラムを寄稿していただいた方は、なんと昭和の大混乱の中を風のように颯爽と生きた、ダンディーという言葉の代名詞と言っても過言ではない、僕が尊敬してやまない白洲次郎さんのお孫さんでいらっしゃる白洲信哉さんです。どうぞご覧くださいませ。

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火の魅力 - 白洲 信哉

大学に入るまで、夏休みのある時期は決って、軽井沢の別荘で過ごしていた。夕方になると祖父は、Bar is openと独り言を言って、ドライマティーニやジン・トニックなどの食前酒をつくり、それを飲みながら暖炉に薪をくべるのが日課だった。

部屋にパチパチと薪の割れる音に、「ああ、今年も軽井沢にきたんだ」と僕は感じたものだ。以前は自宅(現・武相荘)の居間にも、石造りの大きな暖炉があって、祖父は籐の椅子に座り、グラスを片手に、じっと燃える火をながめていた、というし、自ら庭に焼却炉を据えて、紙くずを燃やしていた姿からも、祖父は火が好きだったのだと思う。

ある晩祖母(つまり妻)が、「火が好きな人は助平なんだって」と言うと返す刀で、「助平でない男がいるものか」と言ったという。

僕も火が好きだ。仕事場に暖炉があり、たまの来客や、独酌に活躍してくれる。軽井沢の暖炉は火がみえなかったが、僕は部屋を真っ暗にして、眼と耳とモルトで火と一緒になる。火の神髄を知ったのは、厳しい修行で知られる比叡山回峰行者の故・光永澄道大阿闍梨の元で、修行の真似事をしたときだった。

阿闍梨さんがお経を唱え、大護摩をたくそばで、僕も唱えていた。が、その熱さたるや、「火がきれい」なんて生易しいものではなく、顔もひりひり、つらく痛い時間だった。が、精進、というのは理にかなったことで、身体の塩分がぬけてくると、火ぶくれもおこさなくなる。日をおうごとに、火の熱さに和らぎ、お経の音や、お香の匂いと混ざって、同じ火が生き物のようになってきた。それからは快感の堂内で、外とは別世界、なにかが感じられる場だった。

お堂の中心はご本尊なのは言うまでもないが、僕は護摩壇の「火」なんだと思った。太古から火は穢れを祓い、清浄のシンボルである。和歌山県新宮市の西北に、熊野速玉大社の旧社地である神倉神社がある。毎年二月六日の晩、千四百年あまり続く御燈祭りがあり、僕は幾度かその輪に加わった。

夕刻になると、新宮市内は「上り子」と呼ばれる白装束に、帯縄の異様な井出達の男たちが松明をもち、どこからともなく現れる。彼らは各所にお参りして練り歩き、神倉山頂上のゴトビキ岩目指し登り始める。その数二千余り。

日が暮れると、ゴトビキ岩のたもとで火がおこされ、速玉大社による神事が厳かに行われた。大松明に浄火が移され、男たちは各自の松明に競って火をつけると、あたりはあっという間に火の海となり、僕の身体にも火の粉がふりかかってくる。

山全体が異常な興奮に包まれて、爆発寸前、最高潮に達すると、ゴトビキ岩の神域と、参道をわける結界にある鳥居の扉が開けられた。松明をかざした若者たちが、急な石段を我先にと駆け下り、早さを競い合う。一番手の男性は福男、輝いてみえる。なかには彼女から祝福に、得意げな男もいる。

山に籠った男たちは、火によって清められ、松明が炭となった参道を踏みしめることで、新たな生をうけたのだ。

白洲次郎旧白洲家(武相荘)

我々は普段の生活から、火と疎遠になってしまったが、一日をリセットし、明日への新たな生を授かるために、「火」を生活の一部として、取り入れていくべきではないだろうか。新たに導入された最新機器は、僕にどんな一日の終わりとはじまりを、感じさせてくれるか楽しみである。

若き頃の白洲次郎

晩年の白洲次郎

コラムを寄稿いただきました白洲信哉さん